FC2ブログ
TOP > おぼえがき
--.--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010.09.02

これからは私たちの時代、だよね

IMGP0425.jpg

先輩の電気ケトルをいただきました。
電気魔法びんならあったんだが、容量が3リットル以上ある大きなもので、一人暮らしで使うもんじゃない上に絶対電気代を余計に食いそう。ということでそちらはしまっておいて、ありがたく使わせていただく。


****************************


FF10のヒロインがそんなことを言いました。

エボンジュが消えたスピラの場合は旧世代の人間が軒並み死んでいたので面倒がなかったのだが、現実はそううまくいかないようだ。
誰かが残って、何かをやっている。もしかしたらこの先の情勢には合わないやり方で。

だったらどうするか。目障りならば、邪魔だあるいは非効率だと思うなら、その場所から追い出してしまうしかないだろう。若い人間が持つ創造力と背中合わせの破壊力で、やってのけてしまうだろう。出される方はたまったものではないんだが、将来への希望に溢れる若い人はそんなことは気にしない。
むしろそれこそが時の流れと世代交代が描く螺旋(スピラ)なのかも。


無能なジジババどもめ、という愚痴が40以下の世代の間で溢れかえっているが、そろそろ「自分は何も悪いことはしていないのに、景気は悪くなるしいつも甘ったれの欠陥品としてバカにされるという悲劇に耐えてきたロスジェネ以降の人間」による、年上世代への復讐が始まったのではないか、となんかおかしくなってくる。
「私たちは無能なんかじゃない、無能なのは私たちを責めていたお前たちじゃないか」と。

とはいえ、そういう世代がいう「自分の市場価値」という言葉を聞くと、アイデンティティとか生きる意味とか自己充足とか、最近浮上してきた価値観を単に社会と市場に求めるようになっただけなんじゃないかな、とも思う。マザー・テレサが(状況は違えど)「自分が誰にも必要とされないほど不幸なことはない」とおっしゃったのを「自分に誰も給料を払わないほど不幸なことはない」とパロってみました、みたいな。

自分で自分を満足させることなんてなかなかできないし、そもそも自分の満足がどこまで通用するのかと不安だらけだ。会社でのポストや収入であれば絶対評価で分かりやすいし、決して裏切らない。少なくとも国の経済が破綻するか会社が潰れるか(潰れたって有能な人は転職すればいい)、天災や革命が起きたりしなければ、ということで基盤としてはかなり磐石である。
それでも満足なんてするのかね、という問題もあるのだが、人によっては「いつまでたっても満足できないがゆえに、どこまでも努力して死ぬまで向上とキャリアアップを続ける」ことができるという利点もあるだろう。

ただ、そういう気質を持つ人はきっと10人に一人もいないから、安易にそういう人をロールモデルにしてしまうとうつ病が増えるだけな気がするぜ。誰だって自分が向上するのは嬉しいが、それがどれだけ強いモチベーションになるかは一概には言えないだろう。
塾でバイトをしていても、さして点数にも志望校にも執着しない子はいるしな。その子が怠惰であるかそうでないかを決めるのは、私たちでも学校の教師でもなくて彼らに金を投資して望む未来を期待する、彼らの親御さんだけれども。


******************


おまけ。

このお兄さんが(格好はともかく)前ヶ瀬的に理想のイケメンっぽい。写真の枚数が多すぎなんだが、シュールさに顔がひきつる前にイケメンっぷりに惚れそうになった。やばいやばい。
それでもやっぱり男前とは違うから注意な。
スポンサーサイト
Posted at 01:21 | おぼえがき | COM(0) |
2010.08.04

おうちに帰っておねんねしろ

GEの支部長しかり、八神さんちの月くんしかり、いわゆる厨二病キャラはなぜ世界を救おうとして、逆にピンチに追い込んでしまうのだろう?

よく考えてみれば人間のつまらない部分、悪い部分を嫌って蔑むような人間に、
大部分がそういいものでもない多数の人々を愛せるわけがなく
そういう人たちの、くだらない理由に基づいた悲しみに同情できる心があるわけがなく
共感できないのにその人が苦しむのを止めたくなるわけもない。

倫理的、というか人間や社会のあり方を情ではなく理性や精神に求める人間ほど、実はつまらない人間の集合体である社会なんてどうでもいいんである。そこに生きる個々などもっとどうでもいい。助けなければいけないモチベーションの源が全くない。
つまり人間の悪を憎むが故によりよい社会を目指し改革する、という時点で目的からして破綻しているので決まってキナ臭いことになるのだ。

人々のよりよき姿のため痛みを、というのは一見まともな目標に見える。しかし幕末ネタが流行っている今はあまり注目されないがそういった革命というのはハイリスクなもので、運が悪いとますます悪い影響が出たり集団全体が滅んだりするんである。
革命はカッコいいものでも素晴らしいものでもなく、先の見えない博打だ。しかも命を奪う博打であるから、無闇やたらに打ってはいけない。少なくとも自分のことなどどうとも思っていない人間にチップにされるのは御免である。

厨二、と流行りの言葉を使ってしまったがそういう
自分の価値観が強く例外を認めない
他者への共感が薄い
他人より自分が賢いと思っている
隣人を他人と差別化して特に重要視する
人間嫌いだが理想は追い求める
今の社会は間違っていると何となく(ここ重要)思う
ような困ったちゃんが要求するものは、本当はよりよい社会ではなくナルシズムの充足である。彼らがかくあるべきと思った世界を現実にしたい願望、彼女らが持つ思想が理にかなったものであるという確証がほしいから、現実がそのとおりに変わることを望む。それが困難なら、ねじ曲げてでもやってのける。その現実が自分の正しさを証明してくれるからだ。
だが前述した通り他人のことはどうでもいいので、垣間見ない。死のうが傷つこうが不利益を被ろうが気にしない。大事なのはあくまで自分の考えや自身なのだから。

ギリシャ悲劇の英雄譚において、英雄は身近な人の死や喪失、つまり「二人称の死」を経て完全たることができるという。だが物語において同じ二人称を越えたものが、英雄どころかとんでもない魔物になりうるのは皮肉だ。
両者の間にどんな違いがあるかはわからない。英雄になるのは難しいという意味なのか、それとも英雄と魔物の出自は、実は同じという意味なのだろうか。

とにかく自分が他人嫌いで理屈っぽいと思ったら、あるときひょっこり世界を革命する力が手に入ったとしても、黙って家に帰って寝るのが一番なのかもしれない。


************

TFのマトリクス関係の話が嫌いなのはだからなんだよな。生命の英知の結晶って、おまえらの命おまえらの心より高次のセオリーなんてあるもんか、その言うことに全く疑問を持たないとはどういう思考停止だ、みたいな。
信じたいのかなあ、自分の心には悪いところもあるが、いいところも必ずあることを。
(それだって善の結晶ではないのに)
信じたいのかなあ、我々の罪深さを越えたものがどこかにいて、頑張ればたどり着けるということを。
(罪深いって何がどうしてそうなのかもわからないんだから、逆に何が清いかも曖昧なのに)
アメコミは日コミにない容赦無さが魅力だと思っているのに、やはりキリスト教徒の限界かたまに妙なドリームに浸るのはやめてほしいもんだ…。
Posted at 01:14 | おぼえがき | COM(0) |
2010.07.24

喉から血が出るまで

本当に鳴くのかもしれない、餌が欲しくて。

らばQ:その差に驚愕…自分の5倍も大きいカッコウのヒナを育てるスズメ
らばQ:その差に驚愕…自分の5倍も大きいカッコウのヒナを育てるスズメ


学校の授業でもこういう写真がスライドに使われていたが、ショックだよなあ。

ちなみに仮親がカッコウ雛に餌をやってしまうのは「親心」かというと、実は怪しい。
なんでも、あいつらの口の中の色、鳴き方は仮親の種の鳥の給餌行動を無理やり引き起こす「超刺激」という刺激となるらしい。つまり仮親は本能的にカッコウ雛に餌をやるようにコントロールされてしまうわけだ。
「親心」説のほうがまだ心が痛まないよな。進化ってすごいのう。

ちなみにカッコウは英語でcuckoo。どんだけみんなあの鳴き声が好きなのか。とても風情があるけれど、もしかしてそれすらあいつらの策略なんではないかと疑いたくなってしまう。
Posted at 01:10 | おぼえがき | COM(0) |
2010.07.07

手に入れた途端飽きるタイプ?

FF7にはどうして最初なかった設定やストーリーが増えていくかな。いい設定だがわざわざ過去をなかったことにするより他の話でやればいいのでは、というものもある。

母が言っていたことなので本当か否かはわからないが、ロマン・ロランは『ジャン・クリストフ』を書いているときに、登場人物たちが勝手に自分の筆を動かして物語を作っていく、つまり書き手であるはずの自分が彼らが望むことを書かされているような気分になったことがあるそうだ。
自分が知っている全ての技工と言葉を用いて自分が言わんとすることを文章にする、というのが小説家だが、自分で作ったキャラクターやフィクションが勝手にその中で意図しない自己増殖をしたりするのかもしれない。
野村Dがその状態になっているかどうかは知らんが。

野村Dは洋画好きっぽいが、なんか作りが洋画と違うんだよな。
しかしようやくアメリカでも中二系ストーリーが流行り始めたところなので、ある程度見てくれる若い層はいるかもしれない。あくまで若い層だとは思うけど。

しかし、前ヶ瀬は他人の創作物をただ見ているだけならその世界観やそこにいるキャラクターに対する好き嫌いや愛情は感じるものの、二次創作で自分の手の上に載った時点で「単なる駒」に見えてあまり愛着が沸かなくなる。それよりも「こいつらをどう使ってうまくやるか」という方に目が行ってしまって、自分で書くのでなければ美点にみえるキャラクターの性質も、あくまでストーリーを彩るものとしか考えられなくなる。
元々いとしの君がいる二次でもそうなんだから、オリジなんてもっと情が薄いことになったり。猫田にゃんとシナリオを考えていたときに、主人公の外見もなにも考えていなくて唖然とされたことも、そういう理由からだったりして。

つまり、自分の中で命を得るぐらい自分の中の想像を愛せる人は心が豊かで羨ましい、ということ。
ただそれを妄想垂れ流しでなく一つの作品として昇華させなければいけない、というのがプロとアマの違いか。創作って難しい作業なんだなあ。
Posted at 00:04 | おぼえがき | COM(0) |
2010.06.14

あなたはあなたでしかないのに

どうして妖怪人間でベムたちは「早く人間になりたい」と言うし、リターンズでペンさんは市長になりたがったのかなあ。そしてハガレンでエンヴィーたちはホムンクルスである身を呪ったのかな?
公式が簡単に説明するには「異形が人間になりたかったから」「異形と人間のヒエラルキーを逆転させることを望んだから」「不完全なものに作られた被造物だと自覚していたから」となっているが、どうしても納得できない。

だってあの三人は人間より強いし。ペンさん人並み以上に仕事できるし今の、今なりの生活だってあるし。ハガレンの七人だって、人間には使えない能力があってフル活用してるし、管理されるのが嫌ってどうして嫌なのかも不透明。
最後はちょっとわからんが、前四人は分別があって人格(?)もできてるしな。

なによりも!

ベムやホムンクルスたちは生まれつき人間でない生き物なわけだし、ペンさんだって健常者ではなかった。この「生まれつき」というところがキモ。小さい頃からそう、今もそうで、未来永劫にそう。
確かに周りに比べて何かが欠損している、と思うことはあるだろう。ただそうやって生まれついた人にとって、その欠損こそが当たり前だ。むしろ周りが「ないはずのものが余計にある」という見方もできる。一人っ子の前ヶ瀬にはこの先永遠に血を分けた兄弟はできないだろうし、耳が聴こえない人に歌を説明したって永遠に実感できないのと同じことだ。



そういうキャラクターを連れてきて、「欠損に苦しみ喘ぐ姿」を描くこと自体が、「足りていることが当たり前(事故は病気はあるかもしれんが)」という無意識的な思い込みと優位意識なんでは。
で、そういう無意識がある人にとっての当たり前を『欠損』と名づけて、欠陥であると定義してしまうんじゃないだろうか。

大体において『障害』や『欠損』『奇形』がマイナスとして描かれているところからみて、テレビから言葉を追放したって人は例えば片足が極端に短い人間を「かたわだ!」というふうに認識してしまっているんだろう。
加えてそういったマイナスから立ち直るというのは最高のカタルシスの一つで、例えばギリシャ劇で英雄は一度は気が狂ったりするんだが、それもまた勝手に「こちらが上であちらが下。下から自分を超えるところまで登れば、ギャップができていいんじゃね?」と書いた結果な気がする。当然、そういう人は欠損や欠陥、異物感とは無縁なんだろう。



フィクションが描く欠損の辛さは、大概そうでない人を面白がらせるためのまがいものなんだろう。そうならば同じ条件にない人は永遠に理解できないことになってしまって、それはそれで寂しい。
でも、欠損をただ「マイナスのもの」として「欠損を乗り越えることこそがプラス」と当たり前のように認識するのは危険だくらいは自覚していいと思う。欠損や奇形をおもしろおかしく扱うときは、それが重い題材なんだと心してしなければならない。それがフィクションを作る人の、それを見る人の責任というものだろう。

だって最悪の例を挙げればリターンズでペンさんは死んだんだから。(ハガレンも似たようにオチたらしく勘弁してくださいと思った)
家族になるべきな人は、障害を見た途端に赤ん坊だったペンさんを捨てた。『人間』から捨てられたからオズワルドという一人の人間は『怪物』にならなければならなかった。

その『怪物』は人間が嫌いだったけれども、どうしても人間になりたかった。当たり前だ、本当は怪物じゃなくて人間なんだから。
しかしその心は悪辣に変わってしまっていた。そうして他人を傷つけたから、それを憎むものによって死んだ。ペンさん自身が悪かったのか周りが悪かったのか議論するのは詮がない。まさにたまひよだから。ただ今際の際の言葉を聞いて、望みどおり「彼があるべき」冷たい水に流したのは『家族』だったペンギンたちだった。



わざわざペンさんというキャラに『怪物』の役割を持たせ、そして殺したバートン監督は何を言いたかったんだろうな。「グロテスクで、性悪で、凶悪で、かたわで、気の狂った」、ある意味私たちが最も望む姿をした怪物を作って。
きっとこうじゃないか。「ほら、こうやって『怪物』は作られて生まれて消費されて殺されて消えるんだよ。これが『怪物』のリアルなんだよ」、と。
監督の深遠な考えに想像など及ぶべくもないが、私たち『人間』は勝手に誰かを『怪物』に仕立てて無慈悲に追っ払っておきながら、いつかそいつらが自分たちを脅かすのではないかという、これまた勝手なイメージに取り付かれている気がする。
どうしてだろう。悪の魔王、気の狂った魔術師、巨大な製薬会社…物語の具材として私たちはしばしば『怪物』を必要とする。求めたのは作ったのは自分なのに、どうして怖がっていられるんだろう。

もしかしたら全部、妄想なんじゃないか。虚構のキャラクターたちが怪物が出たと叫ぶとき、その目線の先にあるものの正体は、一体全体なんなのだろう?

で、彼らは永遠に『怪物』でい続ける。やめることは、彼らを蔑んだ『人間』になるということで、誇り高い『怪物』という役者は死んでもそんなことは望まないだろう。そして、どちらにしろやっぱり死ぬだろう。
とはいえそんな美学もやはり作家と観客の勝手な推測なんだよな。フィクションって本当に不思議という話。
Posted at 01:13 | おぼえがき | COM(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。